四の章  
北颪 きたおろし (お侍 extra)
 



     冬支度



 陽のある昼間は何とか暖かだった外気も、少しずつ少しずつ少しずつ頑なになりゆきて。すぐにも雪に覆われてしまうのでと、つなぎの作物を育てることも出来ぬまま、雑草がぽつぽつと見えるだけとなっている田圃や畑が広がる冬枯れの風景や。遠い峰々を飾っていた金赤の錦がいつの間にやら退いての、白っぽいダケカンバの枝の色にのみ覆われてしまった褪色ぶりが、晩秋の黄味がかった陽光に照らされているのを見ていると。それだけでも何とはなし、郷愁を通り越しての寂寥感が増すというもの。人恋しい季節の到来を感じつつ、働き者の村人たちはせっせと冬支度に入り。木守りのためにと取り残した柿の実の橙がいや映える、突き抜けるほどの透明度を増した空の下。柴を刈ったり、保存する作物を寒風に晒したり。冬物、綿入れを用意する傍ら、炭小屋からは細くたなびく煙が絶えず。どれもこれも例年と変わらぬ風景だが、それでもこの何年か振り、気が重かったはずのそれらが、気を入れて打ち込める作業へと成り代わっている。何もかもを野伏せりに奪われての失意のまま、空しさを吐き出す代わりの溜息混じりに進めることじゃ、なくなったからに他ならず。穿った見方をするならば、元に戻っただけの話なのにね。森へと入る顔触れに、少ぉし色白で愛想の薄いお方が混じっていることがあることくらいしか、目に見えた変化はないのだのにね…。





            ◇



 七郎次が神無村へと戻って来たのは、結局、どたばたと出立してから二十日ほどの日にちを数えてのちのこと。暦の上では既に冬を迎えており、虹雅渓と神無村の間に横たわる荒野を渡る砂風も、その冷たさや素っ気なさを心なしか増しているそんな中、

 「さても無事のお戻り、おめでとうござい。」
 「いやですよぅ、ゴロさん。そんな仰々しい。」

 すっかりと虹雅渓との行き来専用の乗り物と化した運搬船から、強風や砂よけ用、裳裾の長い外套姿のまんま、ひょいと身軽に地面へと降り立った長身へ。これもまたすっかりと昇降所になっている翼岩の根元から出て来た銀髪屈強な壮年殿が近づいてゆき、屈託のないご挨拶を差し向ける。それへと、総身を覆っていた厚手の砂防服を脱ぎながら、照れ臭そうに言葉を返した槍使い殿であったが、
「なんの、仰々しいことがあるものか。シチさんがいないと華が減って寂しい限り。」
 朗らかに笑った彼の言いように、喜べばいいのか窘めていいのかと、ちょっとばかり困ったように苦笑を返した七郎次だったのは。響きのいいお声でのお声かけ、快癒したそのまま長旅をした身へのいたわりに満ちていることがまず最初に感じ取れたからだろう。豪快な人性だと思わせておいて、その実、人の世の機微というもの知り尽くして広げたそれだろう、懐ろの尋深きをもって、どんな人性の誰でも掻い込み、暖かく癒して下さる。そんな豊かなお心を持つ彼だということ、重々承知の七郎次だったので。一枚布のようだった砂防服をくるくるとややぞんざいに腕へ巻きつけ、

 「ただ今帰りました。」

 あらためて頭を下げれば、五郎兵衛の方でも和んだ眼差しにての目礼を返して下さった。お土産もたくさん積んで来ましたよ、味噌やら醤
(ひしお)やら砂糖やらをどっさりと。そうか、では村の者らに声をかけておこう。気遣い者同士の交わす会話は何とも手短であったが、それと同時、どこか遠回しな文言ばかりの羅列でもあって。
「勝四郎はどうした?」
 ヘイさんが今朝受けた電信では、確か街から此処までを送って来てくれたはずではなかったか。そうと訊かれて、
「ええ、そこの先までこちらの機体を曳いてくれていたのですが。」
 歩き出していた七郎次が、仄かに眉間を曇らせる。
「西の村への荷を頼まれたとかで、こちらへまでは入って来なかったのですよ。」
 いつまで何に気が引けているものなやら、村の近辺までは来るのに中へまでは踏み込まぬ少年であり。恐らくは本人にしか鳧をつけられぬことへのこだわりなのなら、大人たちも敢えての無理強いはしなくなっているのだが、それが善いことなのか悪いことなのかはきっと誰にも判らない。
「そうそう、正宗殿からヘイさんへの文を預かっておりますよ。」
 電信に関するあれこれでして、途中までは口説を聞いておれたのですが、途中から何が何やらさっぱり判らなくなってしまって。それでと一筆書いてもらったって訳でして。くすすと微笑った七郎次は、

 「これからは ああいうお人たちの時代になるのでしょうね。」

 どこかしみじみと口にした。元工兵で今時の機巧にも通じている平八や、刀鍛冶から機巧躯にまで知識の明るい正宗殿や。
「アタシなんぞ、心意気だけは負けちゃあいないのですが、生産的な何かに得意があるかと訊かれると困ってしまいやすからね。」
 ちょっぴり蓮っ葉にも幇間言葉で締めての微笑って見せた彼ではあったれど。今回の滞在だけじゃあなく、ずっとの5年も虹雅渓にいた間、しみじみ感じていたことに違いない。もはや侍の時代ではないと…人斬りが居ていい時代ではないのだと。

 “それで正しい、それが平和安泰な時代ではあるのだけれど。”

 侍の生きざまは哲学や道としてのそれに成り代わり、死ぬか生きるか、肌身で感じた鍔ぜり合いへの緊張感とか、命を屠った者が負わされる罪科の行方だとかは、観念的なものへと習合風化されてしまうのだろう。文字通りの修羅場に立って血まみれになりながら生きていた者の存在さえ、生身の体温を吹き消されての具象化されてしまうのか。
“皮肉な言いようをするならば、風化する前に新しい戦乱の火種が点きかねないのもまた、人の世の常ではありますが。”
 安泰はやがて停滞を招き、爛熟し切っての煮詰まった揚げ句、進化のための殻破りのような必然を装って、途轍もない規模での破綻や奇禍が日常の中へと降って涌く。人間には最初から、破滅や絶滅が組み込まれているのかも知れないとは、どこぞかのお偉い学者先生のお言葉だそうだが。では、侍という人種は、そんな物騒な遺伝子が成した“忌み子”だということか。

 「…。」
 「シチさん?」

 ふっと、口を噤んでしまった七郎次が、その表情までもを硬くしたものだから。五郎兵衛が案じたように声をかけた。
「え? あっ、えと。すみません。何だか ぼーっとしちまって。」
 条件反射のように、咄嗟に口角を上げて微笑って見せたものの。ちょいとあたふたしてしまった槍使い殿だったのは、柄じゃあない小難しいことを漠然と考えていて、同行する彼の存在を忘れていたほどの上の空だったことを誤魔化したかったのと…それから。
“何でまた…。”
 その脳裏へ、これまた漠然と浮かんだのが、あの寡黙な双刀使い殿の横顔だったりしたからで。確かに戦さの申し子のようなお人、眉ひとつ動かさずに人斬りをこなせる、我らとはどこかで次元の異なる練達ではあったけれど。自分たちと一緒に過ごす中で、少しずつ、一つずつ、戦さ以外のあれやこれやも、その身に染ませていってた彼ではなかったか。他愛ないことにほわりと微笑い、褒めて差し上げれば含羞んでのこと赤くなり、ちょいと叱って意地悪くそっぽを向けば、赤い眸を潤ませて見せもした。七郎次にとってはそんな風にかあいらしいばかりなお人を、そんな物騒な喩えに引っ張り出した自分だってことが、無性に申し訳なくて。そして、

 「あの…。」

 神無村へと尋常な徒歩で入る唯一の道、中空に浮かぶ橋にその足を踏み出しながら、ちょっぴり及び腰な口調で訊いたのが、

  「久蔵殿は、どうされているのですか?」

 我慢が利かず、口を衝いて飛び出していた一言へ。秋の金陽を一面に浴びての、やわらかく温もっていた、巌のような頼もしい背中が立ち止まる。







  「そうですか、やはり。」

 採光に工夫を施してあるがため、板壁には小さな連子窓しかないのに妙に仄明るい家屋の中。正宗から預かったという、分厚い書き付けを五郎兵衛から受け取りながら。平八はさして感じ入ることもない反応のまま、にこりと頬笑んだだけだった。昨日、七郎次の帰還を伝えて来た虹雅渓からの電信を受けてからこっち。何を感じ取っていたものか、今日ここまでの流れというもの、彼には予測が立っていたようであり。
「久蔵殿が出迎えに向かわぬというのは、我らにしてみても怪訝なことではありましたが。」
 シチさんの側にとってもさぞかし意外だったことだったでしょうからねと続け、今でも心の御主である勘兵衛殿が息災かどうか、するり、挨拶代わりのように衒いなく口に出来るお人が、しきりと迷った揚げ句に、

 「その“ご挨拶”より先んじて、久蔵殿の安否を訊くとは。」

 五郎兵衛が伝えた通りを感慨深げに繰り返す。妙に淡々としたまま、表書きとして文をくるんでいた封筒を開きながら、その手元を見下ろしていたものが、
「…。」
 ふっとお顔を上げると、
「ゴロさんだって。薄々ながらも、訝
(おか)しいって気配くらいは前から抱いてらしたのでしょう?」
 前々から違和感のようなものを感じ続けていたのは自分だけではない筈。だってのに、物問いたげなお顔になっての凝視はやめて下さいようと。目許を細め、今度は困ったように眉根を下げると小さく苦笑する平八で。そんな、いかにも私だけが深読みをしての勘ぐりを抱えてたような顔をしないで下さいましと。そんな意が含まれていたらしい言いようを放られて、
「…まあな。」
 息をつくような苦笑を返した五郎兵衛殿。土間に立ったままでいたものが、ようやくの動きを見せ、上がり框へと腰掛けて。すぐのそこにちょこり座していた同居人の、柑子のような色合いの髪を、咎めるような振る舞いをした詫びの代わりのように、大きな手でごそりと撫でやる。そして、

 「やはり何ぞあったものだろか。」

 あらためてのそうと呟いた。平八の言う通り、何とはなくの違和感は五郎兵衛にも感じられており。ただ…そもそもの前提条件からして形になってた訳でなし、それもあってわざわざ言葉にしなかっただけの話。今回の急な騒ぎの中、他でもない急病人本人に長距離移動を強いるという強硬手段を選んでの、自ら介添えに立った久蔵の強引さを。無謀と思いつつも強く引き留められなんだのも、それが所以してのことだったのではなかったか。まるで本当に母と子であるかの如く、それはそれは仲睦まじい七郎次と久蔵であり。言葉をあまり知らない、いやさ、感情薄く、それで思うところを言葉へ置き換えるのがあまり上手でなかった久蔵へ。少しずつ分化しつつあった想いの仔細、当人よりもつまびらかに拾い上げては、こう思われたのでしょう?こう感じ入ったのでしょう?と丁寧に読み聞かせてやっていたのが七郎次であり。すげなくつれない刀の申し子を相手に、根気強くも一歩も引かず、物腰柔らかく接し続けたその成果。気がつけば久蔵の側からも、七郎次にそれは懐いての思慕敬愛するようになっており。額を寄せ合うようにして語らい合う姿の睦まじさは、見ているだけでも心和んだほどという二人だったのに。

 「あれほど思い詰めての取り急ぎ、虹雅渓へと向かわれた久蔵殿が、
  シチさんへの治療手当ても見ないで戻って来ようとは。」

 問題の義手を手掛けたという装具師が診立てに来るより前に、久蔵だけが虹雅渓から独り、先に村へと戻って来てしまい。そんな運びとなった旨を電信で伝えて来た七郎次自身にも、何がどうして唐突にそんなことを言い出した久蔵殿なのか、思い当たる節がなくっての、困惑の態を隠し切れてはいなかったほど。戻って来た久蔵は、様子がおかしいといやおかしいか、いやいや、元からあんな風に寡黙で取っ付きにくいお人ではあったから、変わっちゃあいないとも見えなくはなく。これもまた、七郎次の甘やかしの弊害か、他の人間へまで胸襟開くつもりはないらしい彼だったことから、何があったと強引に聞くのも何とはなくの憚られ、今日のこの日まで誰もがそこへは触れないままにいたのだけれど。

 「一体何があったというのだろうなぁ。」

 くどいようだが、何も言わない彼なのは今更な話。これまでは橋渡しを七郎次がこなしていたので、すっかり忘れていたけれど。口数少なく表情薄く…が基本状態だっただけの話で、話しかけられたりするのが特に不愉快だという訳でもないようで。頼まれれば薪割りだって水汲みだって手伝うし、先だっても鎮守の森の大層な樹齢の大木を、まだ生木だというのにそれはあっさり薙ぎ倒してくださった。
『…超振動を使わなんだようですな。』
『うむ。』
 切っ先へと触れたものを破砕する、侍独自の特異な能力。体内の気脈を練って作りし、強靭な螺旋の波動をそのまま刀へと送り込み、鋼だろうが岩だろうが破壊し粉砕し、光弾だろうが熱線弾だろうがそのまま反射してしまうという奇跡の力を、だが、使わずに切り倒した彼だったらしく。刀の切れ味のみを操っての、なめらかな切り口がそれは見事な仕事振り。
『まだ生きている生木が相手。枝々と根をつないで水や養分を運ぶ管組織、維管束がしっかりしていて、そうそう斬れたものじゃあないはずだが。』
 刀身が重い斧や分厚いナタならばまだ、一点へ力を込めての振り下ろすという挑みようも出来ようが。それらに比べればカミソリのように刃の薄い和刀での一刀両断なぞとは、ほぼ不可能なはずの仕儀。
『さりとて、超振動を使えば幹の内部で水分が膨張し、とんでもない規模での破砕が起きる。』
 神事に使いたいと望まれての切り出しだったので、姿が歪んでは何にもならぬ。そこまで考えた…かどうかは不明だが、まだ片腕は首から吊っていたにもかかわらず、いともたやすく、そんな神業を披露出来た若侍殿であり、

 「当人がああまで毅然としている以上、必要以上に踏み込むのも気が引ける。」
 「そうでしたね。」

 先の急なご帰還に際しては、自分の病状以上に久蔵殿を案じてらした、そんな電信をかけて来られたシチさんでしたから。治療こそまだながらもそこまで回復なさったのだからと、それ以外には特に思うところはないままに、一人だけ帰って来られた久蔵殿だったのやも知れないと。そうそう深く勘ぐることもないのかもと話を結びかけたものの、
「ただ…。」
「ただ?」
 何かしら言いかかった平八が、そのまま口を噤んだのを。
「…?」
 ある意味で慣れたもの。五郎兵衛が辛抱強く見やっておれば。根負けしましたという合図、はあと肩を落として見せて。
「それこそ、あんまり踏み込んだ物言いは邪推にしかならぬのではありますが。」
 言うつもりはなかったか、ちろりと上目遣いになった平八が、渋々のように口にしたのが、

 「もしかして。シチさんが蛍屋での生活に戻ってしまわれるかもと、
  気づいてしまった久蔵殿だったのかも知れません。」

 おっ、と。さしもの五郎兵衛殿へもそれは盲点だったのか、意表を衝かれたというお顔になってしまわれて。
「あり得ないことでしょうか。」
「う〜む…。」
 そもそもは、野伏せり退治のためにと掻き集められた自分たちであり。そのお役目が終わった今、それぞれが負った傷病疲弊が完治するまではとそのまま此処へ滞在させてもらっているが。生活に支障が出ないほどの回復に至れば、そのまま“それではご機嫌よう”と散り散りになっての去ってゆくこと。これまた言葉にしてはおらぬが、暗黙の内ながら、当然の運びと見越している“将来
(さき)”であり。
「菊千代はコマチ殿のところへの婿入りが決定的な身ですから、神無村に居残るとして。それ以外の誰がどうするとは、まだ誰もはっきり明言されてはいない。」
 思えば、私たちのほぼ全員が、先のことまで見通しての考えてた訳ではない者ばかりですしねと、苦笑を濃くした平八は、
「だから余計に気がつかなかった久蔵殿が、蛍屋でのシチさんの立場というもの…他の方々との接し方や頼られ方、見て聞いて何か感じたかもということは大いにあり得ます。」
 そうと結び、
「そうさの、あり得ることかも知れぬ。」
 だとすれば、これまでにないほどの複雑繊細な機微に搦め捕られた久蔵なのだろに。選りにもよって、そういう時の手助け役の七郎次はいないし、何よりも彼こそが当事者だ。さすがに勘兵衛殿は御存知なのだろか。そんな案じを零した銀髪の壮年殿へ、さてどうでしょうかねぇと、平八も小首を傾げるばかり。

 “あの方は、尚更、読めないお方ですしねぇ。”

 陰惨な罪悪感を抱えていたこの自分へも、性急にかからずの静観の構えでいて下さったしと。最後の最後、どうしようもなくなったなら刺し違えてやろうから飛び込んで来いと言わんばかり、穏やかな眼差しをいつも向けて下さっていたことに、どれほど宥められていたかと、そんな想いを噛みしめた平八が、何とはなしに見やった先。お隣りの茅葺き屋根の下にては、その勘兵衛と七郎次が久方ぶりに顔を合わせているところ…。





            ◇



 どうしたものか、あれからのずっと久蔵のことばかりを考えている。あまりに急な態度の変わりようだったのと、何とも形にならぬ引っ掛かりが胸に閊えて…気になって。

 「勘兵衛様。七郎次、ただ今戻りました。」
 「うむ。」

 囲炉裏を間に挟んでの、白い衣紋に蓬髪の惣領様との差し向かいも久々のこと。ご心配をおかけしましたと、四角く座ったまま深々と頭を下げれば。なに、お主のことだ、このくらいでどうにかなりもすまいと大して案じてはおらなんだがな、と。穏やかそうな笑みとともに、そのように辛辣なお言いようを返されて。あいたた…と、ちょっぴり剽げたように自分の額をぺちりと、揃えた指先で打って見せた七郎次だったが。

 「………。」
 「いかがした?」

 広くはあるが仕切りも衝立もなく、一瞥で見渡せる屋内をざっとせわしく眺め回してしまった視線へと、勘兵衛が気づいての声をかけて来。それへハッとしてから…自分の膝元を見下ろした七郎次。少しほどのためらいの気色の中、言おうか言うまいか、そんな行きつ戻りつをしての後、

 「…久蔵殿は、どうされましたか?」

 こんなにも躊躇が差し挟まる方が不自然だと気づかぬほど、あの青年のことばかりを案じていた彼なのだなと。そこは勘兵衛にも容易く拾え、ついのこととて擽ったげな失笑が、精悍なお顔へと零れてしまったほど。

  どう、されましたか?
  いや。あれは水汲みに出ておる。そろそろ戻るのではないかの。

 お主がいない間も、だからと言って怠けてはいられぬと思うたか。常の仕事はきっちりこなしておったぞと、次男坊の勤勉ぶりを告げてやりつつ。この自分を前にしては、これまで一度たりともあり得なかったこと。心ここにあらずという様子の古女房なのを、苦笑混じりに見守っていた壮年殿で。そうまでも、今現在の彼の心を捕らえてはなさぬは、此処にいるはずの…此処で逢える筈のただ一人の存在をおいて他ならず。

 『ここには人の手もたんとあるから。』

 そうと言っての突然に、村へ戻ると言い出した久蔵には、正直言って何を言い出したのかがすぐには理解出来なかった七郎次であり。
『あ…。』
 彼とて不自由な身なのにもかかわらず、大変な想いをして自分を運んでいただいた側の七郎次としては。制する権限や資格はなかろう立場、無理から引き留める訳にもいかなくて。手当てを待つ身のその傍らに、ずっと付いてて下さるものと思っていた自分の甘えにも気づかされては、すがりたかった手を引っ込めるしかなく。だったらせめて、言われた通り、きっちり回復してから戻ろうと、医師殿からの指示にも事細かに従って、ただただ快癒を目指し続けた。幸いなことには新しい腕の総交換というような大事には至らず、痛めた部分の補修とメンテナンスだけで十分ですとされ。それでも一旦取り外しての点検が綿密に行われ、疲弊していた体の回復へと専念したその後で、神経組織の再接合には…ちょいと誰にも聞かせられないような呻き声を上げる荒療治も待っていはしたが、そんなこんなにも耐えてのやっと、こうして帰って来たというのに。

 “飛び出して来ての出迎えてくれるとまでは思っていませんでしたが…。”

 ちゃんと昨日の内に、帰りますと伝えてあったのに。なのに、まだその姿を見てはいないことが歯痒くて歯痒くてしようがない。此処へと戻ればすぐにも逢えるものと、そうと思っていた自分に自惚れを感じて気後れしたほど、お顔が見たい、元気なのか無事なのかを確かめたい。

 “だってやっぱり…。”

 あんな状況下だったから、気が弱っていての錯覚かとも思ったが。今でもやはり違和感は消えていない。

 『ここには人の手がたんとあるから。』
 『俺や島田に逢いたくば、
  きちんと治しての養生を済ませてから戻ってくればいい。』

 口にしたことが総て道理にかなっていたので、それで尚更反駁も出来なかったのではあるが、
“これも自惚れでしょうかねぇ。”
 自分を相手に“道理”を持ち出すというのが、そもそも余りなかったこと。むしろ、道理を尽くしての“だから休みなさい”とか“体を冷やしますよ”というこちらからの呼びかけへ、そちらこそあんまり従ってはくれなかったお人だったくせに。そのくせ、働きづめだった七郎次を、道理がどうこういうより手っ取り早く、何事か訴えるように目許潤ませ擦り寄るだけで、判りました休みますから…と易々と陥落させもしたくせに。それがどうして、あの時だけは。依怙地になってでもいるかのように、言葉で理屈で説き伏せようとした久蔵だったのだろか。それが妙に引っ掛かってしようがない七郎次であり、

  「…お主が蛍屋へ戻るのかと。」
  「はい?」

 ただでさえ上の空になりかけていたところへ、不意を突かれてのこと、そんな声をかけられて。我に返りざま、え?と軽く弾かれたように顔を上げた七郎次だったのへ。泰然としたままな御主は、口元を柔らかくほころばせ、同じ言いようを繰り返した。曰く、

  「お主が蛍屋へ戻るのかと。それを案じておるようだったがの。」
  「………あ。」

 先のことを、とな。つい漏れ出たという様子で呟いておった…と。勘兵衛もまた、彼の青年が何事かに心捕らわれていはしたようだと告げてやり。とはいえ、

 「そうなったとしても、今生の別れとなるものでなし、とは。
  儂ほど生きた年寄りでないと実感も涌かぬことなのだろうかの。」

 それこそ、そうまで言うほどもの“年寄り”でもないくせに。野趣あふれて男臭さの匂い立つお顔をほころばせながら、ご大層な言いようをする勘兵衛に。何を仰せですかと破顔をし、やっとのこと、心からの笑いに頬をほころばせの、声を弾ませた七郎次であり、
「そうですよね。」
 この御主と共に連れ立って、遠く旅立つつもりでおいででも。そんな先から必ず戻って来てくれるのならば、それは今生の別れじゃあない。だから、自分としてはそれほどの大事と捉えての思い詰めもしなかったことだのにと。物事への理屈がまだまだ単純なそれで、やっぱり可愛らしいお人だなぁと。頬を温められての微笑ったその胸の底で、だが…ふと、七郎次もまた、今になって気がついた。

  “…でも。どうしてアタシは、そんな風に考えているのだろう。”

 それは“お別れ”じゃあないという答えが。そんな心積もりが、どうしてさらりと出て来た自分なのだろか。微笑っていたはずの表情が失速し、固まりかかったそんな間合いへ、
「おお、戻ったか。」
 向かい合う自分の肩越し、表への戸口の方を透かし見た勘兵衛が発した声に、
「…っ。」
 思わずのこと、背条が伸びる。足音も気配もしなかったのに、土間の方でかたりと静かな物音がして、柄杓を退けての甕へ水を注ぐ音がし。それが止まるのをじりじりと待ってののち、そろり、肩越しに背後をと振り向けば、

 「…。」

 白小袖の上へ青い袷を重ね着ての、腰から下はやはり青い筒袴。そしてそして、今日は冷えるからだろか。手首に白い石灰ギプスをまとわせたままの、右の腕を首から吊って。見覚えのあり過ぎる淡紫色の羽織を肩に着た、すらり、若木のような痩躯をしゃんと立たせた青年が、土間の水口近くからこちらを見やっているのと眸が合って。

 「…久蔵殿。」

 薄い肩もほっそりとした肢体の線もそのままに、金の髪を冠のようにかむった白いお顔が、こちらを向いている。いつまでも肩越しでいるのも妙なことと、踵を上げての腰を浮かせ、立ち上がって上がり框までを立ってゆけば。
「…。」
 彼の側からも静かに歩を進めての近づいて来てくれて。框のへりに再び腰を下ろした七郎次へ、傍らまで寄ったがために少し見下ろすような高さになった視線を、やはり真っ直ぐに向けて来る。相変わらずの無表情、口も開かぬ彼なのへ、

 「帰って来ましたよ? お約束した通り、すっかり治して。」

 にこり、小首を傾げるようにして微笑いかければ。

 「………………………………しち。」

 小さな小さな声がして。はいと、即座に応じてやると。

 「しち。」

 またぞろ、覚束ない抑揚で繰り返す彼であり。二十日もの間、口にしなかった名前。だから、お顔を覚えてはいても口が忘れかかっていたとでもいうのだろうか? やはり“はい”と小気味のいいお返事を返してやれば、
「…。」
 唇がふと閉じてのその代わり、自由になっている左手が伸びて来て。んん?と小首を傾げつつも逃げはしないおっ母様の頬を、少し冷たい指先が撫で、肩へ降りてはそこも撫でて。そして、それから………。

  「…っ。久蔵殿?」

 上から覆いかぶさるようにしての、その身を投げ出して。痩躯が懐ろへと飛び込んで来たものだから。いかに隙だらけな七郎次だったかは否めない…じゃあなくって。
「久蔵殿?」
 急なこととて びっくりしたのも束の間のこと。胸と胸とを合わせるように、片手しか使えないのをもどかしがるように、ぎゅうとしがみついて来たその温みが。そして、何とかお膝へのしかからぬようにと足元を避けてはいたが、そんな気遣いが要らぬほどのその身の軽さが、あまりに甘やかで切ない感触だったので。その身をこちらからも双手で受け止めていた七郎次であり。
“…久蔵殿。”
 背へと回された手の指が険しく立っており、七郎次が着ていた冬用の羽織をぎゅうと掴みしめている。もう離れるものかと言わんばかりな、しゃにむな様子が何ともいわれず愛惜しい。それまでのずっと、不安で不安で落ち着けずにいたこの胸へ、温かいものが一気に染み入っての満たすような気がしてならず、

 「…ご心配をおかけしましたね?」

 言われた通り、すっかりと元気になって帰って来ましたよ? そうと話しかけるのへ、
「…、…、…。」
 何度も何度も頷いてくれるのが、また愛しくて。ちゃんとご飯は食べてましたか? 相変わらずに体が軽いし、ほら、唇が乾いてる。お顔を覗き込まれ、だが、首を傾けているそのお人もまた、微笑っているつもりが…ちょっとだけ、青い瞳を潤ませかかっているものだから。
「〜〜〜〜〜。」
 泣かないでと訴えての懸命に目を見張る、そんな稚さがまた、可愛らしいったらないお人。明かりとりの必要から、蓋式の窓を押し上げてあった連子窓。そこから吹き入る風の冷たささえ掻き消して、やっとのことで再会の叶った二人。互いの温みを分け合っているかのようで。


  ほら、シチは帰って来たじゃないか。
  島田との再会が夢でなくてよかったと、あんなに喜んでいたのだもの。
  この自分と一緒にいるの、こんなに嬉しいと思ってくれてるのだもの。
  だから、だから。
  胸の奥のひりひり、もういいから何処かへ消えて。
  息をするのさえ苦しくなった、
  重い蓋のような何かも、もう何処かへ消えて………。




 「さぁてと。どうしてくれましょうかね、この散らかりようは。」
 「…っ。」



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  *微妙〜な、〆め方ですいません。
   長い四章なので、ここまでで前半としますね。
   そう、まだまだごちゃごちゃは続きます。
(とほほん)

めーるふぉーむvv めるふぉ 置きましたvv

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